宇喜多秀家陣跡〔関ヶ原古戦場〕
うきたひでいえ じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Ukita Hideie [Historic Battlefield of Sekigahara])
【B-GF001c05】探訪日:1990/6.3・2026/4.19
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4146
【MAP】
〔駐車場所〕
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1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおいて西軍最大の17,000の兵を率いた福大将・宇喜多秀家の陣跡である。南天満山に陣を構えた。
秀家は元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、1588(天正16)年以前に秀吉の養女・豪姫を正室としており、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受け、五大老の一人にまで上り詰めた。秀吉没後、前田利家も死去すると、加藤清正・福島正則ら武闘派七将による石田三成襲撃事件が勃発する。その際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出している。また、関ヶ原の戦いの直前の1599(慶長4)年末から翌1600(慶長5)年にかけて、複数の重臣が宇喜多家を離れるという宇喜多騒動が発生する。重臣らの多くを失った秀家は家中の立て直しを姉妹聟・明石掃部に委ねたが、明石による侍登用などの施策が充分な成果を上げる前に、関ヶ原の戦いを迎えることとなる。
1600(慶長5)年6月、家康が会津征伐のため出兵すると、秀家は浮田左京亮を先発隊として派遣し、当初は協力的な姿勢を見せていたが、石田三成挙兵を受け、秀家も家康打倒のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として、石田三成,大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。なお、既に会津征伐軍に合流してしまったために進退窮まることになった浮田左京亮(のちの坂崎直家)は秀家と決別して東軍に加わることになった。
秀家は伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後は本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃したのち、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の本戦においても西軍主力として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし、先の宇喜多騒動で多くの重臣が出奔した宇喜多家は浪人雇用で凌いだが、人材不足は否めず、当初は、兵数1/3の福島隊に対し有利に戦ったが、やがて押し込まれ、加えて小早川秀秋の背信で西軍は総崩れとなり、宇喜多隊も壊滅した。秀家は戦場を離脱して逃亡した。
石田三成,小西行長,安国寺恵瓊が捕らえられて京の六条河原で処刑されるなか、秀家は、敗走し揖斐でかくまわれた後、翌年6月には上方から海路をとり薩摩半島の山川湊に到着し、島津氏の庇護の下でかくまわれた。そして、1602(慶長7)年12月、徳川・島津間の和議が成立し、島津忠恒が上洛し家康と対面した際に、秀家潜伏が明かされ、身柄引渡しが進められることとなる。秀家は西軍の将としてはきわめて軽い処分で済み、身柄は駿府城の二の丸に置かれることとなったという。その後、八丈島配流が決まり、息子2人と従者10名ともに八丈島に移された(秀家は八丈島の公式史上初の流人とされる)。秀家は島で50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝えられる。1616(元和2)年には刑が解かれたが、八丈島に留まり、1655(明暦元)年11月20日に死去した。享年84。関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた武将である。
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【史跡規模】
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【指 定】 |
| 関連時代 | 安土桃山時代 |
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| 関連年号 | 1600年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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| 宇喜多秀家 | UT01 | 浮田左京亮(坂崎直盛) | UT03 |
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<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)
<関ヶ原古戦場 関連史跡>
| 西軍(戦力総数:80,000以上) | 東軍(戦力総数:74,000~104,000) | ||
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桃配山(徳川家康最初陣地跡)・陣場野/床几場(徳川家康最後陣地跡) |
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| 傍観軍 | 反応軍 | 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡 | |
| 開戦地・決戦地 | |||
| 東首塚・西首塚 | |||