京極高知・藤堂高虎陣跡〔関ヶ原古戦場〕
きょうごくたかとも・とうどうたかとら じんあと〔せきがはらこせんじょう〕
(Encampment Ruins of Kyogoku Takatomo and Todo Takatora [Historic Battlefield of Sekigahara])
【B-GF001b04】探訪日:1990/6.3・2026/4.19
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原262
【MAP】
〔駐車場所〕
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1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いで約3,000の兵を率いた京極高知と約2,400の兵を率いた藤堂高虎の陣跡である。東軍の第2陣として夜半に岡山を出陣し、先鋒の福島正則陣営の後方に布陣し、松尾山の小早川秀秋,山中村の大谷吉継らに備えた。
京極高知は早くから豊臣秀吉に仕え、功により羽柴姓を許されたが、秀吉死後は徳川家康に接近し、1600(慶長5)年には岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦いでは、平塚為広ら大谷吉継隊に対して藤堂高虎と共に戦うなどの戦功を挙げた。戦後は丹後一国12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称し丹後藩初代藩主となった。
また、兄の京極高次は西軍へ属しつつ、西軍の動向を東軍に伝えていた。東軍諸将の間では高次が東軍に与していることは7月の段階で知られていたが、石田三成ら西軍諸将は高次と豊臣一門との関係から西軍に加わるものと思い込んでいた。高次が大津城に籠城したことで東軍についていた事実を知り、西軍の毛利元康軍,立花宗茂軍1万5,000とも3万7,000とも4万とも言われる兵が大津に攻め寄せる。その結果、関ヶ原本戦の当日まで大軍の西軍を大津に足止めさせることになった。高次は本戦当日に大津城を開城降伏し、園城寺にて剃髪染衣の姿になって高野山へ送られたが、戦後、井伊直政・山岡道阿弥・弟の高知らの説得により高野山を下りた。家康からは高く評価され、若狭一国8万5,000石を得た。
藤堂高虎は、幼少の頃より人並み外れた体格で、筋骨逞しい身体であったという。気性も荒く主君もよく変えたが、1576(天正4)年に羽柴秀吉の弟・羽柴長秀(豊臣秀長)に300石で仕える。長秀のもとで数々の戦功を挙げていく。1586(天正14)年には秀長に聚楽第の邸内に徳川家康の屋敷を作るよう命じられるが、警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。家康は高虎の心遣いに感謝したという。
1598(慶長3)年8月の秀吉の死去直前から、徳川家康に接近する。高虎は元々家康と親交を有しており、豊臣氏の家臣団が武断派・文治派に分裂すると、高虎は徳川家康側に与した。
1600(慶長5)年、家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦する。9月15日の関ヶ原本戦では早朝、大谷吉継を相手に戦闘を行った。その後、山中へ転戦して石田三成と戦ったとされる。また、近江時代の人脈を活かし脇坂安治や小川祐忠,朽木元綱,赤座直保らに対して、東軍への内応工作を行っている。戦の終結後、脇坂安治は東軍との仲介に感謝して高虎へ「貞秀の太刀」を送っている。
戦後、これらの軍功により家康からはそれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。
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【史跡規模】
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【指 定】 |
| 関連時代 | 安土桃山時代 |
|---|---|
| 関連年号 | 1600年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 京極高知 | G761 | 京極高次 | G760 | 毛利元康 | OE13 |
| 立花宗茂 | MW11 | 藤堂高虎 | F795 |
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<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)
<関ヶ原古戦場 関連史跡>
| 西軍(戦力総数:80,000以上) | 東軍(戦力総数:74,000~104,000) | ||
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桃配山(徳川家康最初陣地跡)・陣場野/床几場(徳川家康最後陣地跡) |
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| 傍観軍 | 反応軍 | 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡 | |
| 開戦地・決戦地 | |||
| 東首塚・西首塚 | |||