大谷吉勝・木下頼継陣跡〔関ヶ原古戦場〕

おおたによしかつ・きのしたよりつぐ じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Otani Yoshikatsu and Kinoshita Yoritsugu [Historic Battlefield of Sekigahara])

【B-GF001c07】探訪日:2026/4.19

【B-GF001c07】大谷吉勝・木下頼継陣跡 岐阜県不破郡関ケ原町山中

【MAP】

〔駐車場所〕陣跡南側の県道21号線側道(旧中山道)沿いに駐車場がある。

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおける大谷吉継の一族である大谷吉勝・木下頼継兄弟の陣跡である。大谷吉継陣地のある藤川台の南側に位置し、吉継が初めから松尾山の小早川隊の謀叛に備えて直属の兵を配したものと考えられる。
 大谷吉勝(吉治,吉胤)は吉継の子(一説には弟)、真田信繁(幸村)は義理の兄でもある。病状の悪化した吉継は吉勝を後継者として、行動をともにさせていた。
 関ヶ原の戦い本戦では吉継と共に西軍に与し、小早川秀秋の軍勢が東軍へと寝返ると、大谷隊はその攻撃を受け、一時は戸田重政と平塚為広とで食い止めたが、近くに陣取っていた脇坂・赤座・朽木・小川ら北陸勢も寝返り、挟撃されて部隊は崩壊した。父の吉継は自害したが、吉勝は敦賀に落ち延び再起を期そうとしたが、敦賀城の留守居も不穏な動きをしたため断念し、大坂に落ち延びたとされる(のちの大坂の陣・道明寺の戦いで戦死)。
 木下頼継は大谷吉継の次男とされるが、甥とも養子ともいわれている。本戦では兄の大谷吉勝とともに陣取るが、小早川秀秋の寝返り攻撃で、自害直前の父から戦場から落ちるよう指示を受け、戦場を離脱して越前国で潜伏したが、同年のうちに病死したという。また関ヶ原で戦死したとも。
 陣跡には特に標柱は建っていないが、大谷吉継陣跡の駐車場の南側とされる。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大谷吉勝 AW01 木下頼継 AW01 大谷吉継 AW01


【B-GF001c07】大谷吉勝・木下頼継陣跡



【B-GF001c07】大谷吉勝・木下頼継陣跡

<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)

<関ヶ原古戦場 関連史跡>

西軍(戦力総数:80,000以上) 東軍(戦力総数:74,000~104,000)

石田三成陣地・島左近陣跡・島津義弘陣跡・小西行長陣跡
宇喜多秀家陣跡・平塚為広碑・大谷吉継陣跡・大谷吉勝/木下頼継陣跡

桃配山(徳川家康最初陣跡)・床几場(徳川家康最後陣跡)
本多忠勝陣跡・京極高知/藤堂高虎陣跡・福島正則陣跡
松平忠吉/井伊直政陣跡・田中吉政陣跡・細川忠興陣跡
岡山(丸山)烽火場/黒田長政・竹中重門陣跡
山内一豊陣跡・浅野幸長陣跡・池田輝政陣跡

傍観軍

吉川広家陣跡・安国寺恵瓊陣跡・毛利秀元陣跡
長宗我部盛親陣跡・長束正家陣跡

反応軍 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡
開戦地・決戦地
西首塚・東首塚

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