田中吉政陣跡〔関ヶ原古戦場〕

たなかよしまさ じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Tanaka Yoshimasa [Historic Battlefield of Sekigahara])

【B-GF001b07】探訪日:1990/6.3・2026/4.19

【B-GF001b07】田中吉政陣跡 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原918-3

【MAP】

〔駐車場所〕岐阜関ケ原古戦場記念館の駐車場を利用する。

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原戦場の最前線にあたる地で約3,000の兵を率いた田中吉政の陣跡である。
 田中吉政は近江国高島郡の出身で、秀吉の命により三好秀次(豊臣秀次)に属し、秀次が近江八幡43万石を与えられると、吉政はその筆頭家老格となった。
 1590(天正18)年、豊臣秀吉により徳川家康が関東へと転封になると、吉政には三河国岡崎城5万石が与えられた。1595(文禄4)年の秀次事件では、秀次自害のほかにも多くの家臣が処分を受けたが、吉政ら宿老にはお咎めはなかった。結局、吉政は、「秀次によく諌言をした」ということで加増され、最終的に岡崎城主10万石の大名となった。吉政は岡崎城や城下町の整備に尽力している。
 秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。関ヶ原の合戦前の岐阜城攻略では黒田長政,藤堂高虎とともに大垣城から岐阜城へ向かう西軍を河渡で殲滅した。
 関ヶ原の戦い本戦では、黒田長政隊・細川忠興隊とともに石田三成軍と激戦を繰り広げた。なお、合戦後には黒田長政(明石全登の親族)とともに、西軍の山田去暦や最前線で戦った明石全登(吉政の娘婿という説がある)の逃走を手助けをしたとされている。
 東軍勝利後、三成の居城・佐和山城を宮部長房(長煕)とともに搦め手から突入して落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の三成を捕縛する大功を挙げた。実際に捕縛にあたったのは、田中伝左衛門,沢田少右衛門である。三成は腹痛で病んでいたが、医師の勧める薬は拒否したため、吉政は熟慮のうえ、健康によいという理由付けをしてニラ粥を勧めたので三成はそれを食したといわれている。吉政は三成と同じ近江出身で親しい仲であったため、その後も手厚くもてなし、三成は太閤から給わった脇差し「切刃貞宗」を礼として吉政に授けた。三成の大小のうち打刀「さゝのつゆ」は捕縛者である田中伝左衛門(田中吉忠)に渡った。
 戦後、これらの勲功が認められて、筑後一国柳川城32万石を与えられ、国持ち大名となった。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
田中吉政 TB15 田中吉忠 TB15 沢田少右衛門 ****


【B-GF001b07】田中吉政陣跡



【B-GF001b07】田中吉政陣跡

<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)

<関ヶ原古戦場 関連史跡>

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