細川忠興陣跡〔関ヶ原古戦場〕

ほそかわただおき じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Hosokawa Tadaoki [Historic Battlefield of Sekigahara])

【B-GF001b08】探訪日:1990/6.3・2026/4.19

【B-GF001b08】細川忠興陣跡 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原811-104

【MAP】

〔駐車場所〕

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いで約5,000の兵を率いた細川忠興の陣跡である。東山道(中山道)から黒田長政・竹中重門らが布陣する岡山烽火場の麓、相川の南付近に布陣した。
 細川忠興は15歳での初陣のときから織田家に仕え、1578(天正6)年の元服では信忠より偏諱を受け、忠興と名乗った。また、同年8月には信長の仲介を受けて、明智光秀3女の玉子(ガラシャ)と結婚する。1582(天正10)年6月、岳父の明智光秀が本能寺の変後、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、これを拒否し、玉子を丹後国の味土野に幽閉とされる。
 その後は、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、小牧・長久手の戦いに参加し、秀吉から羽柴姓を与えられた。九州征伐,小田原征伐にも従軍し、豊臣姓を下賜される。しかし、秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。1599(慶長4)年には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成を排斥した(七将襲撃事件)。
 加賀征伐では早期に徳川方に立つ姿勢を示した。徳川家康はこの一件で前田系勢力を吸収し、徳川党はより強力となったといえる。忠興は前田系勢力と徳川党の衝突を回避させただけでなく、徳川党が前田系勢力を従わせていく過程においても貢献した。
 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。
 大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍・石田三成の襲撃を受け、人質となることを拒み、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。
 関ヶ原本戦では忠興隊は、黒田長政らと共に石田三成の本隊と戦闘となり、首級を136上げたとされる。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
細川忠興 G382 細川ガラシャ G142 小笠原秀清 G452


【B-GF001b08】細川忠興陣跡



【B-GF001b08】細川忠興陣跡

<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)

<関ヶ原古戦場 関連史跡>

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