山内一豊陣跡〔関ヶ原古戦場〕

やまうちかずとよ じんあと〔せきがはらこせんじょう〕(Encampment Ruins of Yamauchi Kazutoyo [Historic Battlefield of Sekigahara])

【B-GF001b10】探訪日:2026/4.25

【B-GF001b10】山内一豊陣跡 岐阜県不破郡関ケ原町野上1390

【MAP】

〔駐車場所〕陣跡に駐車ができる。

   1600年(慶長5)年10月21日(9月15日)、関ヶ原の戦いにおける約2,100の兵を率いた山内一豊隊の陣跡である。徳川家康の最初の本陣である桃配山の東に布陣した。
 織田信長による尾張統一時期には、一豊は一時流浪の身となったが、やがて木下秀吉の家人となり、朝倉氏との刀禰坂の戦いなどで頭角を現す。豊臣家の小大名として、長浜城主,掛川城主となる。
 秀吉の死後の1600(慶長5)年には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加した。家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると(大坂の妻・まつから密書が届いたとも)、一豊は下野国小山における軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。この居城を提供する案は、堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われる。また、一豊は池田輝政など周辺の勢力が東軍に就くようとりまとめていた。
 関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を池田輝政や浅野幸長らと共に破った。
 本戦では、これらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当したが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家隊が南宮山の麓で行く手を遮っていたこともあり、さしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場へ移動した。
 戦後、小山会議で去就を決めかねていた諸侯を徳川加担に向かわせた発言が功績として評価され、土佐国一国9万8,000石(高直しにより20万2,600石)を与えられた。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 安土桃山時代
関連年号 1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
山内一豊 F944 浅野幸長 G148 池田輝政 KI13


【B-GF001b10】山内一豊陣跡



【B-GF001b10】山内一豊陣跡

<関ヶ原合戦 布陣図(開戦前)>

(現地パンフレットを一部編集)

<関ヶ原古戦場 関連史跡>

西軍(戦力総数:80,000以上) 東軍(戦力総数:74,000~104,000)

石田三成陣地・島左近陣跡・島津義弘陣跡・小西行長陣跡
宇喜多秀家陣跡・平塚為広碑・大谷吉継陣跡・大谷吉勝/木下頼継陣跡

桃配山(徳川家康最初陣跡)・床几場(徳川家康最後陣跡)
本多忠勝陣跡・京極高知/藤堂高虎陣跡・福島正則陣跡
松平忠吉/井伊直政陣跡・田中吉政陣跡・細川忠興陣跡
岡山(丸山)烽火場/黒田長政・竹中重門陣跡
山内一豊陣跡・浅野幸長陣跡・池田輝政陣跡

傍観軍

吉川広家陣跡・安国寺恵瓊陣跡・毛利秀元陣跡
長宗我部盛親陣跡・長束正家陣跡

反応軍 脇坂安治陣跡・小早川秀秋陣跡
開戦地・決戦地
西首塚・東首塚

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